休職サラリーマンの日記

適応障害やうつ病と診断された私が、日々思うことを書き連ねていく予定のブログです。

仕事のギャップ

気づいたことがあったので、もう一つ書いておこうと思います。

おそらく、私の仕事は他の方の仕事とは、形態が大きく異なります。それは、大学院を出ないとなることができないゆえだからかと思います。

私が今の職を志したのは、大学生のときです。

その仕事は、「先輩後輩のない独立した個人として活動をすることができ、自由に意見を表明することができる」ものであると説明を受けました。

人と群れるのが好きではない私にとっては、なんてすばらしい職なんだろうと思ったものです。

しかし、その話が本当になる人は、ほんの一握りの優秀な人だけでした。

私のような頭の悪い人間は、先輩の言うことには絶対に逆らうことができず、自由な活動の余地なく、まるで奴隷のように上からの指示を実現しなければならない、そんな地獄のような世界でした。大学院で余計に学費を払っているのに、です。

こんなこともあって、「自由」なイメージのあった職が、まったくの「不自由」であることが分かったので、そのギャップで心が疲れてしまったように思います。

また、この界隈は最近になって顧客のアンケートを重視する向きが出てきました。私が話を聞いたときは、アンケート自体はありましたが、無視してよかったのですが、今はそのアンケートに不満が書かれていれば、修正しなければなりません。そういう意味でも不自由でした。

嫌な奴だと思われるでしょうが、「大学院まで出たのに、一般のアンケート評価に日々さらされる」というストレスも、感じていないと言えばうそになります。優秀な人は、無視をしてもクビにはなりません。しかし、私のような下っ端は人事評価にさえ響くという噂です(実際には、今のところはしていないようですが、将来的には評価に組み込まれるという噂です)。

このような、自由だと思ったら実は自分にとっては不自由だった世界で、求められる能力も持たず、ただただしがみついているというのに耐えられなくなったんだろうな、と思った今日この頃です。

たぶん怠け病

 今日から、心療内科を妻の通うところへ変えました。妻が、よく話を聞いてくれる先生だとアドバイスしてくれたからです。

 残念ながら、遅れて到着してしまい、1時間の枠のはずが40分ほどしか話ができませんでした。過去のことは話せましたが、現在のことはあまり詳しく話せなかったように思います。

 しかし、以前のブログに書いた、「新型うつはほとんどが怠け病だ」というくだりについては、先生としての解説をしてくださいました。生物学的なうつ病(従来のうつ病)と、心的な(=ストレス性の)病があること、後者はなかなか判断が難しいこと。

 私は先生に、「自分が怠けて休んでいるのか、何らかの疾患があって休んでいるのか知りたい」と伝えましたが、初診では判断がつかないとのことでした。それは、そのとおりだと思います。

 ただ、話している間にふと感じたことがあります。それは、自分はやはり怠け病なのかなということです。先生は、怠け病の存在は否定しなかったので、やはり怠け病が存在するということだと思います。そして、私は今日、ずいぶんスラスラと話ができました。それは、先生が聞き上手で、妻の前評判もあったので、話せたというのも事実でしょう。ただ、話していて「あれ、私、元気じゃない?」と思ったのです。確かに疲れましたが、気づけば40分が経っていましたし、最近感じていた集中力の低下も、ここでは感じなかったのです。

 つまり、やりたくないことはやりたくないが、気にかかることはできるという、いわゆる「怠け病」ということになるのかなと考えました。ただ、これをお風呂で反芻していたら、ちょっと鬱々としてきてしまいましたが。

 11月をどうするか、来週、先生に見立てを伺うことになっています。今日の感じ、徐々に復帰してみましょうということになるんじゃないかなと予想しています。怠け病ゆえ、正しい判断なのですが、復帰するのが怖く、鬱々としてきます。

タイトルを変えてみる

妻に勧められ、タイトルを変えてみました。もっと自由に書いたらどう? という趣旨のようです。これからもよろしくお願いします。

さて、私は都会から地方へ仕事の関係で移住しました。都会では当然、車は不要で、旅行のときはレンタカーを使っていました。

しかし、田舎へ来て、車がないと家に帰れないところに住みました。新築で、安かったというのと、探し始めるのが遅くて、そこしかなかったという理由からでした(足元を見られた気もしますが)。

そこで、3年ほど住んだとき、今の妻と出会いました。節約が必要であるということで、維持費のかかる車を手放すことになりました。引っ越しをして、電車でも移動できるようになったからです。

しかし、一度持ったものというのはなかなか忘れられないようで、運転が無性にしたくなる日が続きました。今回、気持ちが落ち込んでしまった1つには、ドライブができないことも含まれていたように感じます。

手放す際には、代わりにレンタカーを使っていいという約束を取り交わしたのですが、なんと言ってもレンタカーは好きな時に運転できず、自分の空間でもないので、あまり気分は変わりませんでした。

そんな私を見かねて、妻が中古車の購入を承諾してくれました。私は、ドライブが好きなだけで、車種や新旧車にはこだわりがないため、ありがたい申し出でした。今月末に、納車されます。古い車ですが、車体はしっかりしているようでした。

とはいえ、妻にとっては随分な決断だったと思います。これから維持費もかかるわけで、それが負担になってしまうだろうな、と今から気に掛かっています。妻が行きたいという場所があったら、最優先で連れて行こうと思います。

地震

大きな地震があったようで、みなさん大丈夫でしょうか。

地震というと、私は大きな地震が自分がいるところで起きるときに、耳に異常が生じることがあります。

東日本大震災のときは、前日に耳に虫が入ったのか! というような音が耳の中でしました。

今回は、非常に長い耳鳴りがあり、祖母? が私を呼ぶ声が聞こえた気がしています。

ただ、100%起こるわけではなく、疲れているときは当然になりますし、逆に何もなくて大きな地震が起こることもあります。

100%なら、みなさんに警告することができるのですが、そうではないと無用に混乱をきたすので、あまり耳に異常があっても伝えないようにしています。

仕事との距離

実家に帰って、療養? していました。今日、家に戻りました。

戻る道すがら、「職場に近づいているな」とふと感じまして、心が苦しくなりました。

電車にも乗れるのに、仕事を休んでいるなと。

仕事から一旦離れるのは大事でしょうが、意外と物理的距離も重要なのかもしれません。

適応障害って……

昨日、FNS歌謡祭を見ていました。80年代、90年代の歌謡曲が好きな身としては、好みの音楽が多く、楽しめました。

そこで、話題となっていますが、深田恭子さんが番宣(映画の宣伝でしたが)のために出演していて、好きな曲を発表していました。

私の主観ですが、声量が小さく、呂律が回っていないように思えました。もしかしたら、適応障害の症状ではないのかもしれませんが、側から見れば辛そうでした。

私は、以前のブログに記載のとおり、4年ほど適応障害の診断を受けていて、ある医者からは「仕事を変えれば治る」とも言われています。今は、実質的に休職中なのですが(とはいえ、小さな業務には携わっています)、彼女のお姿を拝見すると、自分は症状がずいぶんと軽いのに休んでいるかもしれないと、罪悪感も覚えました。

そのあと、実家に戻っているので、妹と話をする機会を得ました。私からみると、妹は要領がよく、天才肌だと感じます。

その話から、私の仕事への向き合い方の話になりました。私は、100人の人がいると100人を満足させないと「失敗」と考えるようで、そうではなくてその内の1人や2人が話を理解してくれれば、それで御の字ではないかという話になりました。

私も常々、そのように考えてはいて、別に他人に期待などしていないというつもりなのですが、よくよく考えると自分の中で自動的に相手への期待値が上がってしまって、全員が理解できなければ失敗であると考えてしまうようです。完璧主義なのかもしれません。

妹は、相手がどのようなレベルかを判定して、そのレベルの人がどこまでなら理解できるかを確定し、それを目標とするそうです。したがって、その人を完璧な高みへ上げるのではなくて、その人が上がれる分しか期待しないそうです。そうすれば、その人の成長は期待できずとも、自分の目標は達成することができると。

本音では、それも自分の中ではしているつもりなのです。しかし、気づくと相手に期待してしまう。とは言っても、相手に期待したところで、自分ではどうすることもできません。それだったら、自分のできることだけをするというのは非常に効率的だし、自己否定をする必要もなくなります。

ですから、私の場合は適職ではあるけれども、その向き合い方(=適応の仕方)がうまくいっていない(=障害がある)という見立てなのかなと思いました。そうすると、仕事を変えたとしても、同じ問題が起こってしまうことは、ありうるのではないかと。それはそうかもしれない、そう感じました。

いずれにしても、話をするいい機会でした。やはり色々な人の考え方に触れるのは、大事なことだと思いました。

そして、深田恭子さんには、もし十分に休息が取れていないなら、もっと休んでほしいと思いました。しかし、これも酷なことを言っているようにも感じます。適応障害は、生真面目な人がなりやすいと思います(私は、根が不真面目なはずなのですが)。ですから、休んでいると色々と迷惑をかけてしまうと考え、復帰を早めようとするはずです。そこで、「まだ万全じゃないから休めば?」と言うと、生真面目ですから自分がちゃんとしていないと考えてしまって、また深みにはまってしまうと思うのです。休むのは最善の道ですが、本人の主観では最善ではないため、そのギャップに苦しむことになるかなと。世論が彼女に対してどのように判断を下しているのか、記事をしっかりと読んでいないので分かりませんが、「もっと休みな」という声も、決して本人のためになるとは限らないことを考えてみてほしい気がします。とはいえ、あの状態は休むべきかなとは思いますが。

今のところ、私は11月に復帰する予定です。深田恭子さんと比較すれば、1ヶ月の休みは十分ではないかと思います。しかし、11月が近づいたときに、私がどうなっているのか、私にもわかりません。また落ち込んでしまうかもしれません。ですので、11月には復帰しなければならない! とは考えず、今は過ごしたいと思います。

夢見が悪い

仕事を休み、実家に戻って数日が経ちました。前回のブログに書いたように、これまでは確かに具合が良かったように思います。

しかし、今日の夢はひどかったのです。ことあるごとに周りから「できないやつ」と言われ、それに対して「自分はうつ病だ!」と主張しようとするのだけれども、声が出ないという夢でした。

思えば、昨日見たある映画のせいかもしれません。「頑張っているやつを笑うな」という旨の(平凡な?)セリフを聞いた時、不思議と胸に刺さりました。そういえば、私は仕事を休んでいるし、最近は本気で仕事をしていなかったし、「頑張ってないな」と。

それがなんとなく心に引っかかったまま、寝付いたらこんな夢を見たのです。やはり、日々を平穏に過ごさないと、夢見が悪くなるんだなと思いました。

あと、引きこもりがちだとお腹が出てくるし(これも辛い)、気分も悪くなりそうなので、妻の勧めで散歩に出掛けていました。実は、今年すごく気分が落ちた先月は、この散歩中に仕事のことがたくさん頭に浮かんできて、そこから辛い状態になっていました。

そして、おとといも歩いたのですが、やはり仕事のことがたくさん浮かんできて、落ちはしなかったのですが、非常にしんどかったです。このとき、春日武彦『あなたの隣の精神疾患』(集英社、2021年)を読んで、自分の症状が気になったというのも原因だったかもしれません。

その本を読むと、私はいわゆる「新型うつ」に該当しそうなのです。仕事に関しては落ちるけれども、その他の活動はできているからです。

そして、その本には「新型うつの多くは、甘えだ」的なことが書かれていました(少し誇張表現かもしれませんが)。本当に「新型うつ」なら治療が必要だが、多くは詐病とまではいかなくとも、日常生活を送るべきだということが書かれているのです。

誰でもそうでしょうが、私は詐病を主張しているつもりはありません。新型うつの患者は、自分をうつ病にしたがるそうですが、私は健康でありたいと願っているつもりです。しかし、実際に仕事はできていないし、これは普通の人だったら割り切って仕事をするのかもしれないし、もしかしたら健康でありたいという思いも嘘で、うつ病でサボりたいと思っているだけかもしれないし、うつ病にしてほしいと願っているのかもしれません(潜在意識)。

私は、その点をはっきりさせてほしいと思ったのですが、この本はエッセイ調で新型うつなのかどうかを見極めることはできません。筆者が、インターネットの自己診断サイトも批判の対象にしているので、そういうことはしなかったのだと思います。

しかし、私が病気で仕事を休まざるを得ないのか、サボりたくて詐病を偽っているのか、それを診断してほしいのです。新型うつは薬は効かないと書かれていますが、私は抗うつ薬を飲んでいます(効果は感じません)。しかし、薬は減らしてほしいと願っているつもりです。

こんな感じで、本を読んで余計に気持ちがザワついてしまって、落ち着かないのです。これで、変な夢を見たのかなと。みなさんは、どのような症状なのでしょうか。定量化されていないので、難しいですね。